−プルシャンブルーの背景に真っ白な梯子で、非常にシンプルですね。
はい。形は後からついてくるんです。自分の考えていることをシンプルに表せるものとして、たまたま梯子に出会っておもしろいなと思ったんですね。
−どういうところが?
梯子の機能は、架けることによって上にも下にもつなげるところにあります。自分のいるところから他のところに移動できる。こういう機能を考えると梯子は希望に満ちているように見えます。でも、たいていの梯子は、納屋や軒下に置き去りにされていますね。私の中にある「梯子」もそのような《どこにも架かっていない梯子》、あるいは、目的のためには短すぎたり貧弱であったりして《忘れられてしまった梯子》なんです。
−それはコミュニケーションの問題ですか?
そうです。梯子は両端で二つのものをつなぐ機能があるはずなのに、つながる保証はありません。コミュニケーションも伝達をめざしていても、確実に相手に伝わるかどうかはわからない。
−《common》とありますが?
《common》には「共有」の意味があります。共有をめざしてもその保証がない、そこに不安が生まれます。僕は色弱なんですね。ですから、言葉のコミュニケーション以前に、表象的に不安がある。自分の見ている色がそのまま他の人の見ている色であるかどうかに非常に不安があるわけです。
−芸術表現の不可能ということですか?
共有への熱烈な憧れがあるにもかかわらず、絵画自体のビジョンさえ共有できないのではないかという不安ですが、絶望しているわけではないんです。負け戦であろうともなんとなくねばっている…それをすることの方が僕にとってはいいな、と。
−では、「美」とは何だとお考えですか?
「美」ではなく「アート」と考えたいと思います。「アート」は何かを得ようとする行為、何かに達しようとする行為で、「美」という形容詞ではくくりきれないものだと思っています。 |